頬を撫でる風の冷たさに目を覚ました。
不覚にも熟睡してしまったらしい。
見事に晴れた、気持ちのいい日だった。
原稿に追われて溜まっていた家事を片付けるついでに、久しく帰ってこない薄情な部屋の主のため、風を通し、大掃除をして、我ながら健気と思いながら布団まで干してやった。
部屋を吹き抜ける柔らかな五月の風と、頃合いに取り込んだ、陽光をいっぱいに含んだふかふかの布団の魔力に負け、目覚めた時にはすっかり日が暮れてしまっていた。
午後を無駄にしたと思ったが、どうせ予定などないのだ。贅沢な午睡をしたと気持ちを切り替える。
それにしても、世界の果てにいながらこの部屋を占領する御手洗が憎らしく、大掃除まですることはなかったと後悔した。
身体を伸ばしリビングに戻る。
こちらも開けはなしたままの窓に、カーテンがそよいでいる。いつもは邪魔なだけのステレオのプラグを差し、久しぶりに電気を通し、先ほど御手洗の部屋で見つけたレコードに針を落とした。
優しく漂うギターの、懐かしい旋律。
夕食時はとうに過ぎていたが、腹はそれほど空いていない。
何か飲もうか。酒の気分ではない。紅茶を淹れようかと思ったが、どちらかと言うとコーヒーの気分だ。それも、インスタントではなくきちんと豆から淹れた。
粗挽きの豆に湯を注ぐと、部屋中が芳香で満たされ、やがて開け放した窓から吸い込まれていく。
ギターの音色が同じように、馬車道の空へと溶けていく。
あの時もこんな季節だった。
僕らはうらぶれた古いビルで、今みたいにコーヒーを飲み、レコードを聴いた。
若かった僕は音楽を空へ、海へ解放した。
そう言えばあの時のコーヒーはひどいものだった。どうやったらあんなものを淹れられるんだろう。
ねえ、御手洗。
君は、今何してる？
海も空もひと続きだ。ならばいつかこの曲も五月の風に乗って地球を巡り、君に届くのだろうか。
ポケットが振動する。
「やあ」
君はまるで見計らったように、決まってこういう時に電話をしてくるから、本当に困る。
「ようやく携帯電話を携帯することを覚えてくれたのかい」
開口一番、時候のあいさつより先にそんな皮肉を言われ、
「常識的な時間にかけろって、君は何度言ったら覚えてくれるんだろうね」
だいたい携帯から携帯にかけるなんて不経済じゃないかと詰ると、
「非常識と言われるほどの時間じゃないだろう。老人はこれだから」
朝なんか相当早起きになっただろうと図星を指され、思わず黙り込む。
再びコーヒーの香りと音楽だけが部屋に満ちていく。
「……懐かしいのを聴いてるんだね」
さっきとは打って変わった、優しい声。
思えば君はあの時代、ずっと僕に優しくしてくれていた。それが当たり前のようで、だから僕は、君との距離を見失ったんだ。
「君の部屋から出てきたんだ。いい加減、色々整理しないといけない歳だからね」
そろそろ帰ってこないと全部捨ててしまうぞと脅すと、「それは困る」と真剣な声が帰ってくる。
「こっちはいい気候だぜ。君の布団まで干してやって、コーヒーも淹れたところだ」
いつ飛んで帰ってきてもいいよと冗談を言うと、明るい笑い声が随分近くから聞こえた。
「それは嬉しいな」
ドアノブが回る。
「君の紅茶も美味しいけど、今はなぜかコーヒーの気分なんだ」
そして、僕の記憶の中よりもずっと白髪の増えた御手洗が姿を現した。
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ちょっと早いけどノックアウト記念日話。ピクシブにも上げておきます。
ずっと放置状態でスイマセンでした。私事で色々ありまして、創作自体のリハビリからのようやく御手洗復活です。