ギイ、とどこかで扉が開いた。
けれども私はドアも何もない、真っ白い部屋の真ん中に一人立っている。
どこから聞こえたのだろう。夢にしては妙にリアルだ。夢？そうだ、これは夢だ。私の部屋のはずがない。
私はまだ眠っているのだ。しかし目覚めの予兆はない。不思議な気分だ。
誰かの足音が聞こえる。まるで精神分析のテキストに出て来そうな夢だ。ここで登場する人物が自分にとってどういう位置づけなのか、という類の。しかし私の場合、このような状況で登場するのは十中八九、同居人だ。分析する意味もない。
だが予想に反して足音は妙に軽やかだ。御手洗ではない。いや、人間でもない。
動物？そう思ったら部屋の中に突然犬が現れた。大型犬だ。ゆっくりと近づいてくる。長い茶色の毛並み、賢そうな瞳。生暖かい息。
……息？
ああ、これは――
「ぐぇっ……！」
重い重い重い重い重い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
鳩尾にいきなり衝撃を受けた。夢じゃない。一気に覚醒した。
そうだった。昨日からハイディとヨーゼフが泊りに来ていたのだ。
ヨーゼフは悶絶する私を無視してそのまま圧し掛かってきた。前足が腹に食い込んでいる。もう一方は胸の上だ。苦しい。退かそうにも40㎏強の巨体が全力でかかってくるのだからどうにもならず、なすがままに顔中を舐め回される。
「こらっ……やめろ…！ストップ！ストーップ！！」
ようやく制止が通じた。文字通りに息も絶え絶えに身を起こすと、ヨーゼフは嬉しそうに口元を緩めたまま尻尾をブンブンと振っている。痛くて重くて顔中ベタベタするが怒るわけにもいかない。彼は忠実に任務を果たしたのだ。首筋をワシワシと撫でてやるとさらに嬉しそうに顔をベロンと舐められた。
「……ヨーゼフ、頼むからもっと優しく起こしてくれ…」
「ワン」
いいお返事だが理解してくれたのだろうか。
だいたい私は寝る前にきちんとドアを閉めたはずだ。ヨーゼフは賢い犬だが自分でドアを開けることはできない。
「御手洗め…」
御手洗はいつも不規則な生活をしているくせに、犬たちが遊びに来ると散歩に連れて行くのだとやたら早起きになる。それだけなら結構なことだが私がいつまでも眠っているのは気に食わないらしく、普段通りの時刻に起きると(言っておくが普段の御手洗よりもよほど早起きだ)「それだけ寝ればさぞ脳も活性化しただろう」などと嫌味を言ってきたり、今朝のように彼らを使ってまで無理矢理起こしたりしてくる。
ヨーゼフを先にリビングへ追いやり、私は洗面所に直行した。ヨーゼフまみれの顔を洗っていると御手洗が入ってきた。
「やあお早う、石岡くん。今朝はまた随分遅いじゃないか」
「……頼むからヨーゼフに起こさせるのは勘弁してくれ。そのうち骨か内臓がやられる」
「大層情熱的なお目覚めのようだがお気に召さなかったのかい。今度はレディにお願いするかな」
ハイディは大人なので顔こそ舐めないが、私の制止が通じないので結局酷い目に遭ことは変わらない。ばちゃばちゃとわざと派手に水飛沫を立てて聞こえないふりをした。
「あちこち飛んでるじゃないか。綺麗に拭かないとカビが生えるんだろう」
「いいからタオルとってくれよ」
何のつもりか、まだ出て行く気はないようなのでついでだから使ってやる。御手洗はいかにも渋々といったようにラックから新しいタオルを出してくれた。
「ありがと…？」
受け取ろうとした手をそのまま掴まれ、顔をワシワシと乱暴に拭かれる。
「ちょ…！やめろよ、自分でやるっ…」
解放されたと思ったら今度は御手洗の唇が降ってきた。
「ん…………」
唇を舐められ、たまらず小さく開いたそこから舌が滑りこんでくる。
深く絡め、吸い上げられ、こんな時間にしては些か情熱的すぎる口付けから解放された時には私の息はすっかり上がってしまっていた。
「……………………朝から何するんだ…………」
「お目覚めのキスだよ」
「もう起きてる……犬に対抗するなよ…」
自分からけしかけておいて何を言うんだ、この男は。
「じゃあ僕が起こしても良いのかい」
「…………絶対その後起きれなくなるから嫌だ」
「だろ？ハイディもヨーゼフもお腹が空いたまま可哀想なことになるんだ。この方が効率的だよ」
そう言って御手洗は邪気のない顔でにっこりと笑う。何だか妙に得意気だ。
――ああ、さっきのヨーゼフと同じ顔だ。
だから私は撫でてやる代わりに、触れるだけのキスをした。
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これもまたキスアンソロの再録でございます。