「あれ、もー……これも借りたやつだ…ああ、こっちも」
僕はソファに寝そべって、古い本の頁を捲る。
君はお気に入りのおもちゃを探す子供のように、僕のレコードの山の発掘に夢中。
「少しは整理しろよ。タイトルとか、アーティスト別にするとかさあ…バラバラじゃ全然わかんないじゃないか」
「僕が困ってないからいいんだよ」
切れかけてチカチカする蛍光灯。何回もリピートしてすっかり聴き飽きたレコード。石岡君は繊細なくせに鈍感で、そういうことにはなかなか気付かない。
だから僕の視線にだって気付きもしない。
単純で、簡単で、そのくせたまに僕が想像もつかないようなことをいとも簡単にしでかす不思議な生き物。
しなやか、というには些か頼りない背中が、丸まって余計小さく見える。
ついこの間まで肩まで届いていた柔らかそうな髪は、今はさっぱりと短くなって、露わになった首の白さにぎくりとする。
――ああ、早くこっちを向けばいいのに。
その髪を撫でて、首筋に触れて、その背を抱きしめる前に。
「……これ、見たことないな。どんな曲だい」
「どれ？」
ようやく振り向いた。でもほっとしたのは一瞬だけ。君の眼に見つめられ、さっきとは別の衝動に眩暈がした。差し出されたジャケットなんか目に入らない。
「ああ、これね。ああ、えーと、うん、君は好きだと思う」
「どんなだよ」
「持ってく？」
そう言うと腕時計をちらりと見た。男物の時計なのに不釣り合いに大きく感じて、僕は慌てて目を逸らす。
朝からどんよりしていた窓の外はすっかり真っ暗で、それでもいつも石岡君が帰る時間よりは若干早い筈だ。今が何時なのかはわからない。僕の部屋には時計がない。これまでもないし、これからも付けるつもりはない。君が帰る口実は一つでも少ない方がいい。
「……ううん、今日はいいや」
「もう帰るのかい？」
「明日早いんだ。仕事でね」
「……珍しいじゃないか」
「人を暇人みたいに言うなよ。そりゃ、否定しないけど」
「石岡君。君はいつからそんなあくせく働くような勤勉家になったんだい」
「そういうお説教はこのあいだ拝聴したばかりだから結構」
「僕らの最大の特権を自ら手放すとはね。そのうちまた会社勤めに戻ろうなんて言い出すんじゃないか」
「もーうるさいなあ…むこうの担当者がどうしてもって、仕方ないんだ。だからどうせ帰っても聴く時間もないし、明日借りるか、ここで聴くからいいよ」
瞬間、地獄から天国まで舞い上がる。
君の他愛無い、きっと何も考えていない言葉ひとつにいとも簡単に翻弄されている。僕が、この僕が。
「昼前には終わるから、こっちに来る前に何か買ってくるよ。何食べたい？」
「うん……なんでもいいよ、任せる」
「後から文句言うなよ。じゃあ――」
ザアァー……
「……………」
「…………………」
全然気付かなかったが、いつの間にか外は土砂降りになっていた。
「………御手洗君」
傘を貸そうか。そうしたら律儀な君は明日にでも返しに来るだろう。
「御手洗君、本当に申し訳ないが――」
いや、明日はどうせ来てくれるんだ。だったらいっそ駅まで送ろうか。
「今夜、ここに泊めてくれないか」
ああ、これだから君は――
「……ああ、いいとも」
君は鈍感だから知らなくていい。
僕がその一言にどれだけのものを込めたかなんて。
それからBGMを明日石岡君が聴くはずだったレコードに換えて、辛うじて冷蔵庫にあったハムや卵と、買い置きの缶詰なんかでささやかな夕食をつくり、一瓶のビールをシェアして乾杯した。
いつも日中石岡君がいる時のように、お互い本を読んだり、取り留めないことを喋る。それもできるだけ自然に、感じよくなるように。
僕は計算と演技の塊だ。だがこれまで唾棄していたはずの努力だって惜しまない。
これが最後の機会であってはならない。
そのうち石岡君はおんぼろのソファで船を漕ぎ出したので先にシャワーを勧めて、僕が戻ってきたときにはもう完全に沈没していた。
「石岡君」
「………うう」
「寝るならベッドへ行きたまえ。ほら」
「……寝てないよぉ………」
「寝てるよ、ほら」
「起きてるよ……」
そう言いながら眩しそうに眉をひそめ、もぞもぞと背もたれの方に顔を向けたので、ベッドへ運ぶのは諦めた。寝顔を見なくて済んだので正直安心した。
パジャマ代わりに貸した僕のTシャツは石岡君にはぶかぶかで、むき出しの腕がなんだか寒々しい。この頃は夜になるとだいぶ冷え込む。かといって毛布の予備なんて持ってない。少し考えて、結局バスタオルをもう一枚持ってきて、なるべく乱暴にかけてやった。今度はちゃんと石岡君用の毛布とパジャマを用意しておかないと。
「起きてるって……」
石岡君は抗議するように少しだけもがき、そのうちおとなしくなって大きく呼吸をはじめた。
本当に眠そうだ。まだそんなに遅い時間でもないのに。
さっき言っていたとおり、彼には毎日それなりに仕事はあるようで、夏頃のように日参してくることはなくなった。はたしてそれは安堵すべきことなのか、落胆することなのか。
「……疲れてるのかい」
「……ううん」
独り言のつもりが、もう眠くて仕方ないような声で返事があってひどく慌てた。
「………ずっと、僕が仕事始めた時からのお客さんで……あの後も、ずっと仕事を回してくれるんだ」
……だから、忙しいとか…罰が当たる。
そう言った君は、ボロボロのソファの上で小さな背中もっと小さく丸めた。
――あの頃、慣れない肉体労働で心も体も疲れ果てた君は、よくこんな風に転寝をしていた。
学生のように伸びていた髪が、今は残酷なほどに短い。
「――おやすみ、石岡君」
電気を落として、僕ももう寝ることにした。
いつの間にか雨はやんでいた。ひしゃげたブラインドから忍び込む月明かり、猥雑なネオン。ぼんやりと浮かび上がる君の背中。
「ぅ………」
うっかりすれば聞き逃してしまうほど、小さな、小さな声。
ほんの少しだけ震える肩。規則正しいはずの呼吸が僅かに乱れる。
「……………ぅ………ぅ……」
柔らかな感触に指が先に震えて、そして僕ははじめて、衝動的に君の髪に触れていたことに気付いた。
「……な…に……」
「あ、いや………」
今日これまで完璧に計算し演技をしてきたはずだった。それがこの様だ。何の言い訳も出てこない。
石岡君を言いくるめるなんて簡単だ。大丈夫。
ああ、でも――
「何だよ……子ども扱いするなよ………」
でも、君の髪は気持ちがいい。
「……その…気持ちよさそうだと思って」
「………は？」
「その、君の髪の毛触りが良さそうで、つい」
「………毛触り…？」
緊張していた体がゆっくりと弛緩していく。抵抗しないようだからそのまま撫で続けることにした。指に心地いい柔らかな感触。君そのものだ。
「うん、そう。思った以上にいい毛並みじゃないか。ベス以上だ」
「…誰…だよそれ……犬？猫？」
「うん、今度紹介するよ、ダックスのお嬢さんだ。きっと君も気に入るぜ」
「……ううん、いいよ……………」
石岡君が本当に寝付くまで、僕はずっと髪を撫でていた。
呼吸が深く、規則正しくなったのを確かめて、ようやく寝室に入る。
扉をきっちりと閉めて、さっきまで君の髪に触れていた指先に口づけて、
「………まいったな………」
今夜は眠れそうもない。
僕は大きな大きなため息をついた。
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Afterglowの後くらいの話。イメージは奥田民生さんの「抱きしめたい」そのまんまでござる。